118
倒れた10年前のことを思い出していた。
じぶんがなにもできなくなる辛さを経験すると
ひとがその立場になったとき
そのくやしさやふがいなさだけは痛いほどわかる
なにもできることはないけど
むりして笑わないでもいられる相手であればいいなと思う
トラウマがあって生きにくいのは自分で
わざとじゃない人に対してそれを振り上げ気を使えとは絶対思わない。
でも、「いやだ」と意思表示したことをわざと続けるひとは
謝りながら殴るのが大好きな人なので、本当にしんどい
肉体的に手を出されなくても、ことばは見えない形で命を削る
すべてを説明しきれない
わかってもらうのはむずかしいとおもっても
やはり時々、大声で叫びたくなる。
おさえていた呪いで焼き尽くされそうになる
わたしはすこぶる、弱いと思う。
なにかをほめるときに、比較対象をつくり堕としているのをみると
苛立ってしまう
ほめるならそのひとだけを絶賛したらいい
目指すものは分断じゃない
わたしはジャンクも自然も大好きだ。
でもなぜいつもどっちかを選ばなければ
どっちにも認めてもらえないのだろう?
なぜどちらかひとつを選ばせるのだろう?
なにかが好きと言っても
じゃああっち派ねみたいな極論になっていくんだろう
話を重ねる前のジャッジ
一回のミスで終了
こ と ば
声
なかなか届かないけど、それでもわたしはわたしの考えを続けていくしかない
認めて欲しいっていうのは才能や絵や仕事とかのカテゴリじゃなくって
いのちそのもののことを、だ
体があるうちに、
触れたいものに触れたいし
できることはしたいから
ひとりの時間にあたためられるものをたいせつに
時々痛みはちいさくはきだしながら
生き抜こうとおもっている
煩悩より10多い、118の夜。
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