脂肪と浮力
先日友人と銭湯へ行き、熱々のからだを水風呂にしずめようと思ったら、思いがけぬ浮力に包まれ肩まで浸かることができなかった。ずいぶんと体重が増えているだろうなぁ、というのは日常動作や座った時の腹や背の感覚できづいてはいたけど、まぁ、なんというか、沈めようとしても勝手に浮いちゃう、というのははじめてのことで、すこし自分のからだのおもしろさに感動してしまった。
人間はうきになることができるのか。
いつぞや、昔、家族でいった釣りの光景なども思い浮かんできたりした。蛍光色の丸いやつを季節外れの海で何度も拾ったことも。
わたしがうきになって海に浮いていたら、なんの魚がくいつくだろうか。
くじらにでものみこまれて、からだのなかを探検してみたり、サメはいやだな、でも、鳥にさらわれるのはありかもしれない。
糸の切れた凧という言葉があるがあの軽やかさを持ち合わせない私には釣り糸の切れたうきのほうがしっくりくる。
当て所なく波に揺られてぷかぷかとひとり海上に浮かんで空を見上げる、うきな私を想像した。
脂肪ってやつは毎日毎日多くの人がその重さの増減に一喜一憂しているけど、水の中だとあんなにも軽くなるんだな。ぷかぷか沈めず地味にはしゃぐわたしを見ながら、水難事故の時は生き残りやすいと友人が言ったようなきがする。そういえば最近もどこかで、こでぶのほうが長生きすると聞いた。
健康とは、脂肪とは。
わたしたちのとらわれているものとはなんだろうな。
かぽーんと音がしてもくもくゆらゆら、閉店間際の銭湯にはまだまだたくさんのお客さんがいて静かなしあわせの湯気でつつまれていた。目の悪すぎるわたしはすべてがうすぼんやりとしかみえないのだけど、湯船の上に並んでいた、北斎漫画のすずめ踊りとそれを囲むピカピカの電飾を眺めながら、杉浦日向子さんの「銭湯にいきなさい、銭湯。理想的なハダカなんか、ひとつもない。みんなでこぼこで、おもしろい。」という言葉を思い出していた。
脂肪は浮く。水で浮かぶ。日々の暮らしの中でも「重い」と思っているもの、ことたちだって、視点や場所を変えればふわりと浮き上がるものかもしれない。一般的に邪魔や厄介や負だと思われるものも、世の中そうそう無駄なものはない、と思ったらすこし面白いのかもしれない。
重量と無重力。
軽視、とは別ものの身軽さについて。価値の反転や再確認など。
良い湯だった。
でもさすがにちょっと脂肪さまが増えすぎた感は否めず、最近は中華研究生活から減塩和食生活に切り替えている。
0コメント